翰林編修趙熙書道墨跡鑑賞
趙熙(1867-1948)、字尧生、号香宋、四川栄県人。蜀の中の五老七賢の一人。世では「晩清第一語人」と呼ばれている。近代川渝の伝統的な文人の中で、大文人と言える。彼は「工詩、善書、間も絵を描く。詩編は筆を援用して立就し、風調は一時を絶った。偶に戯詞を書き、婦孺の口を伝播する」。光緒二十年、趙熙応保和殿大考、名例一等、授翰林院国史館編修。
趙熙は一生勉学に励み,読書に倦まない。家には蔵書が数千巻あり、多くの丹念な評点があり、今成都草堂には趙評点杜詩の4部が所蔵されている。その文章は散文が多く、成都草堂、峨眉山、楽山烏龍諸寺の碑文が残っている。趙詩学は古が最も精巧で、運用が最も活発で、古体と律、絶、龍精の五律を兼ね備えている。趙熙は博学多才で、抱負は遠大だが、この世で発揮できず、山水の間に情を寄せる。
趙熙曾五去一生に3000余首の詩を作り、解放初の郭沫若は一部の印刷費を自任し、上海で「香宋詩前集」の上下冊を提唱し、1300余首の詩を録音した。近年、四川省では「香宋詩札」を出版し、500首の詩を録音した。『香宋詞』313首は民国7年(1918)即刻版で印刷された。人は「香宋語人、人並み外れた資、霊奇の筆を運び、山水を描き、極めて味わいがあり、白石を追跡し、新しさを生んだ」と言い、知言と言える。
趙熙の書道は、書体が秀逸でまっすぐで、諸家を一体化させ、「栄県趙字」と呼ばれた。民国2年(1913)、成都少城公園に「辛亥秋保路死事記念碑」が建てられ、趙は碑名を南西に書いた。私も絵を描き、山水小品が好きで、詩情に富んでいる。