左宗棠書札手跡鑑賞。安徽省図書館蔵。
左宗棠(1812-1885)、字季高、朴存、号上農人、湖南湘陰人。幼い頃から聡明で,道の光が人を挙げた。太平天国蜂起が勃発した後、親友の胡林翼が推薦し、前後して湖南巡撫張亮基、駱秉章の幕の下に入り、太平軍に抵抗するために計画を立てた。1860年、太平軍が江南大隊を破った後、両江総督の曽国藩襄と一緒に軍務を行った。曾国藩は湖南で丁勇を募集し、湘軍と太平軍と協力して戦うことを推薦した。1861年に太平軍が杭州を攻略した後、曾国藩が浙江巡撫を疎かに推薦し、軍務を監督した。同治元年(1862)に中仏混合軍を結成して「常捷軍」と呼ばれ、中英混合軍を拡大し、浙江省内の数城池を相次いで陥落し、福建省浙江総督に昇進した。杭州を陥落させ、浙江全土を制御した後、功封一等厳靖伯を論じた。直ちに軍を率いて太平軍の李世賢、汪海洋部を追撃するよう命じられた。太平天国を鎮圧した後,洋務に従事した.晩年は清軍を指揮して新疆を奪還したことがある。また軍機大臣を務め、中国とフランスの戦争の時に福建の軍務を監督した。積極的に布防し、「謹靖援台軍」を結成して台湾に渡った。晩年は辺境の回復と台湾の増援強化に功績を残した。