文格家蔵晩清諸老尺
文格、字式岩、また式言、満州正黄旗。道光二十四年(1844)進士、官は山東巡撫、庫倫事務大臣に至る。
左宗棠から文格への手紙
咸豊二年(1852)太平天国の大軍が長沙を包囲攻撃し、省城が危急になった際、左宗棠は郭嵩焘らの勧めで、湖南巡撫張亮基の招聘に応じて山を出て、重任を委ねられ、初めて険しい姿を現した。その後、左宗棠は陝甘を平定して復乱を治め、新疆を回復し、洋務運動を展開し、清廷の上腕株の臣となった。この7つの通信状の中で左宗棠と文格は安徽、江西、湖北各地に流浪した太平軍の余党李秀成、李世賢部の討伐について話し、辺境の塞防、政務について話し、左文襄公戎馬の一生を研究する重要な参考資料である。
李鴻章から文格への手紙
この手紙は1883-1885年の中仏戦争の間に書かれたか、李鴻章は旅順口で金州から山税関の間に砲台とドックを建設する予定だった。長期にわたって兵務と外交を監督する過程で、李鴻章は列強の脅威が海上から来ていることを深く意識した。そのため、1970年代から李鴻章は「海防論」を提出し、近代化した海軍の設立を積極的に提案し始めた。中国とフランスの戦争の勃発は海防情勢を急激に緊張させ、この2つの通信は李鴻章が旅順、煙台、金州などの海陸防に配置し、給料の調達について論じた。
翁同書致文格信札
咸豊八年(1858)翁同書は安徽巡撫に任命され、咸豊十一年(1861)寿州地方紳練仇殺事件の処理が不適切で、寿州の失守を招いた。同治元年(1862)曾国藩の『参翁同書片』では、訴翁同書が城を守るのに力がなく、翌年翁同書が西北に発戍され、陝西甘総督の都興阿留が甘粛軍営で働いた。この件はこの際に書くべきで、手紙の中で近況を述べて、文格の給料が遅々としてどうすればいいか教えてもらいました。
同治四年(1865)翁同書は病死し、官爵を追復し、右都御史を贈り、文勤を列挙した。
駱秉章の手紙
駱秉章、本名駱俊、名づけ文忠、曾国藩、左宗棠、李鴻章、胡林翼、彭玉麟、曾国荃、沈葆桢とともに「晩清八大名臣」と呼ばれた。駱秉章はかつて湖北藩司、湖南巡撫を務め、湘十年に入り、封疆に位置し、軍を治めて平乱し、功績が著しい。